Archive for 5月 2018

革命とは、命が革る、と書く。新しい生命を得たかのように、市民生活が生き生きと輝いてこそ、革命である。革命の成功も失敗も、その曲折も、街頭の市民の笑顔と行動とに表現される。新しい革命のイマージュが必要である。多数者による平和的かつ議会主義的な民主主義革命。悲壮なエリート革命家が銃器を持って推進する革命の対極にあるようなイマージュである。21世紀以降の革命運動。革命は真理を実現する。

「類的人間本質は諸関係の総体である」このテーゼにはマルクスの立場が幾つもの点で端的に現れている。一つには、「本質の外在性」である。一般的には、本質の内在性が問題になるが、マルクスは本質(と哲学が呼ぶもの)は、対象にとって「外的な」、複数の多様な関係性、相互に影響しあい一定の構造を成しながら運動する生きた関係であると把握した。本質が外部にあるがゆえに、本質を求める実践が外部への働きかけ=関係、労働となる事も意味する。また、この総体の概念はヘーゲル由来の構造概念である。

真理の実践性。真理は実践を通じて獲得されるものであるという真理観が可能である。真理を相対的真理と絶対的真理に分ける。相対的真理を種々の概念、絶対的真理を理念というふうに換言する事が可能である。実践とは真理を行うことであるが、予め絶対的真理が主体に自覚的に与えられるのではない。主体は僅かな真理の断片を有しているだけである。これが現実の状態との間に矛盾を持つ。この矛盾を解消して、相対的真理を実現するのが実践である。実現された状態を主体は意識して、それが主体の内的な真理観念に多様な影響を与える。この過程を通じて、内的真理の真理性は高められるとともに、外的環境の真理性も高められるのである。

弁証法と唯物史観

マルクスのイデオロギー論によれば、およそ精神的活動は、政治であれ宗教であれ科学的理論であれ、経済的土台(下部構造)に深く影響される。であるならば、ヘーゲル弁証法の原理もまた、当時の歴史段階の経済的関係を一定の仕方で反映している筈であり、マルクス的にはそれが階級間の矛盾対立となるだろう。社会が矛盾を原理としていることを論理学に適用すると、弁証法論理になる、という訳だ。だが、マルクスはヘーゲル弁証法を転倒したが、弁証法を捨て去った訳ではない。矛盾対立において支配側ではなく、被抑圧側に立って弁証法を活用した、というべきだ。

マルクス主義と真理


マルクス主義と真理

真理論が必要。それ自体がイデオロギーではあっても。例えば、完全、絶対な真理の論理的な証明は可能かと言えば、不可能である。これはマルクス主義もキリスト教も同じ。何故なら、絶対、完全な真理を証明する、とは、その証明の方法が対象となる真理以上の真理性を有していなければ、証明にならない。
対象となる真理以上の真理性を持つ証明方法があるなら、対象は絶対や完全ではありえない。次に、この証明方法の真理性を証明する別の方法が、、と、トートロジックに無限に続く。

このことは、完全性や絶対性そのものを否定するのではなく、完全性や絶対性は、そのような証明の連鎖の運動の中にある事を意味するように思われる。そこに実践の問題があり、実践は宗教なら信仰、政治なら革命運動になる。 マルクスは実践、プラクシスという用語も用いるが、後期には寧ろ労働というだろう。労働とは対象化である。科学が科学であるのは実験によるが、実験もまた労働であり実践である。無限の証明の連鎖は労働による対象化によって飛躍ーエランする筈。


さらに言えば、真理の超越性と内在性、特にマルクス主義の文脈では歴史との関係がある。歴史が真理の実現のプロセス、というよりも寧ろ、その都度、完成に向かう真理の一部として個々の歴史事象が生起していることは、マルクスがヘーゲルとスピノザに学んだ事実を知れば分かる。つまり、どこかに歴史が完成する絶対的な一点があるというよりは、プロセスそのものが真理の一部なのである。(そこから手段や方法論の倫理的正当性の問題も出来する)この意味で真理は歴史内在的であって、絶対性や完全性は、常に既に不完全なもの、相対的なものを媒介として知られる。ここにも弁証法があり、歴史内在的なものは歴史超越的なものである。

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