マルクス主義と真理


マルクス主義と真理

真理論が必要。それ自体がイデオロギーではあっても。例えば、完全、絶対な真理の論理的な証明は可能かと言えば、不可能である。これはマルクス主義もキリスト教も同じ。何故なら、絶対、完全な真理を証明する、とは、その証明の方法が対象となる真理以上の真理性を有していなければ、証明にならない。
対象となる真理以上の真理性を持つ証明方法があるなら、対象は絶対や完全ではありえない。次に、この証明方法の真理性を証明する別の方法が、、と、トートロジックに無限に続く。

このことは、完全性や絶対性そのものを否定するのではなく、完全性や絶対性は、そのような証明の連鎖の運動の中にある事を意味するように思われる。そこに実践の問題があり、実践は宗教なら信仰、政治なら革命運動になる。 マルクスは実践、プラクシスという用語も用いるが、後期には寧ろ労働というだろう。労働とは対象化である。科学が科学であるのは実験によるが、実験もまた労働であり実践である。無限の証明の連鎖は労働による対象化によって飛躍ーエランする筈。


さらに言えば、真理の超越性と内在性、特にマルクス主義の文脈では歴史との関係がある。歴史が真理の実現のプロセス、というよりも寧ろ、その都度、完成に向かう真理の一部として個々の歴史事象が生起していることは、マルクスがヘーゲルとスピノザに学んだ事実を知れば分かる。つまり、どこかに歴史が完成する絶対的な一点があるというよりは、プロセスそのものが真理の一部なのである。(そこから手段や方法論の倫理的正当性の問題も出来する)この意味で真理は歴史内在的であって、絶対性や完全性は、常に既に不完全なもの、相対的なものを媒介として知られる。ここにも弁証法があり、歴史内在的なものは歴史超越的なものである。