「ヘーゲル論理学の体系」などの著作で武市が言うのは、ヘーゲルの論理構造の「一元の二元」という性格である。何の事かと思うかも知れないが、ヘーゲルは「宗教哲学」に纏められているが、基本的にキリスト教由来の一元論の論理学と世界観に立つ。神の国の論理と人の世の論理とをしかし区別して、一元論が二元論として現れるのが人の世だというのである。従って弁証法の原理は神の意志(御心)であって、それが俗世にあっては矛盾対立としてしか現れ得ない、と言っている。言い換えれば、絶対の相対である。
弁証法、特にヘーゲル弁証法に関して私が最も強く影響されているのは、案外、武市健人かも知れない。ヘーゲル弁証法とマルクス弁証法は、形式的には共通していても異質なものと見なすべきだろうが、武市はヘーゲルのルター派的な広大なそして原理的な宗教性を重く扱っている。マルクスは、ヘーゲル弁証法の神秘的な外皮とそれを呼んで、弁証法の核心を主に精神現象学の理解から抽出したものとマルクス主義では言われるが、それは単純に形式的対立の問題ではない。唯物論と観念論の対立も、シンメトリー的な対立というよりも、過剰と欠如、歪曲を孕んだズレである。そう、マルクスが学位論文で取り上げたエピクロスが、クリナメンの概念を独創したように、ヘーゲル弁証法に対し偏奇しているのがマルクス弁証法である。(勿論、アルチュセールの偶然性の概念はマルクスーエピクロス由来の物だ。)
真理つまり正しさそのものの体系は、予め我々に与えられてあるものではない。我々は一般に正しさの基準を、他者の承認に求めている。最も単純素朴な、一足す一、というような演算の答えも、それが正しいという事を、他者の承認、他者による推論の正しさ、証明の正しさの承認によって、いわば経験的に正しいと自己もまた承認しているに過ぎない。だが、正しさの根拠は絶対的真理そのものであって、承認は前提的な手続きでしかない。絶対的真理を神の意志(御心)とするから、この世での真理はヘーゲルにとって体系的真理、プロセスとして現れる。無神論的ー科学主義的な、内在的な真理観念は、言い換えればヘーゲルにとっての承認論であり、それ自体が絶対的真理の根拠なのではない。だが、絶対的真理の観念なくしては、相対的な真理の根拠づけは不可能となり、一切は遊戯に堕する。それは我々の道ではない。
矛盾の論理。A=A、同一律における矛盾が弁証法論理の根拠の代表的なものとして挙げられる。同一律の矛盾とは、「同一である」という事実の矛盾である。何かがー何かとー同じである、というためには、比較対象の後者が必ず必要であるが、同一であることのうちには、同じものが他には存在しない、という規定が含まれている。ある一者が唯一単独であることは、それが何かと同じ、ということがあり得ないことを意味する。ということはその一者は、それ自身、自己同一であり得ない。それ自身が一者でありながら異なるものであるという矛盾をなしている。従って、AはAではない、という事と、Aであることが同時に成り立ち、また、成り立たないのである。だが、同時に正であり誤である、とは、何を意味するのか。それは認識論から存在論への根拠の移行である。無は存在するか、という問題である。一元論である弁証法は、無が存在するという立場である。あるいは、無と有を貫いて存在の原理、絶対者の意志が貫徹しているのが弁証法的原理である。
生命。意識。生命は遠いもの、隔たりのあるもの、媒介的なもの。私には諸々の感覚表象の一定のまとまりがある。私は自分が生きていることを知らない。生きていることも死ぬことも、私からは遠い。私は死にたくない、死の表象と恐怖の感情。生きるとは死の否定としてしか知られ得ないのでは。自己否定の否定としての生命。ある感覚の継起としての私。私という言葉で私は何を指示し、また意味しているか。発話主体そのものではない。(私は、話している)と、私が話すとき、既に私は別の場所に移動しており、発話内容の中には、かつてそこに私が存在したという事実を指示する意味しかない。私は、いかなる言葉によっても絶対に汲み尽くす事が出来ない。私とはまず私自身にとって影であり、従っていかなる他者にとっても影である。私が私を意識する時、既にそこに私はいない。だがこれは万物の構造であるというよりも、意識一般の構造である。万物は意識されるものとしては、意識対象として、私と同じく常に影であるが、万物はそれが物理的実在である限りは、このような意識構造を否定することが規定に含まれている。従って、私はある物を、意識対象としてしか受け取らないが、ある物は、意識されなくても存在するものとして定義されている、という形で、絶えず私の意識から逃げていく。だが、これも一つの主体モデル、主体観に過ぎず、主体形成機能を有する言説であり、イデオロギーである。主体性の多様性とは、異なる主体というよりも、異なる主体性に対する思想と、主体形成そのものの機構の多様性のことである。また、影であることは実体の存在を前提し、また影に関しては知りうることを意味する。複数の異質な影や、影の色彩といったものこそ重く見られるべきである。