真理の体系

真理つまり正しさそのものの体系は、予め我々に与えられてあるものではない。我々は一般に正しさの基準を、他者の承認に求めている。最も単純素朴な、一足す一、というような演算の答えも、それが正しいという事を、他者の承認、他者による推論の正しさ、証明の正しさの承認によって、いわば経験的に正しいと自己もまた承認しているに過ぎない。だが、正しさの根拠は絶対的真理そのものであって、承認は前提的な手続きでしかない。絶対的真理を神の意志(御心)とするから、この世での真理はヘーゲルにとって体系的真理、プロセスとして現れる。無神論的ー科学主義的な、内在的な真理観念は、言い換えればヘーゲルにとっての承認論であり、それ自体が絶対的真理の根拠なのではない。だが、絶対的真理の観念なくしては、相対的な真理の根拠づけは不可能となり、一切は遊戯に堕する。それは我々の道ではない。


 相対的真理の体系としての現実論的な絶対性の立場から、本来、マルクス思想、マルクス主義も、また神学の歴史も、およそあらゆる真理の事柄は主体的に扱われるべきである。
思想論としては、他者の思想の学習は、その反作用としての自己の主観的思想の成長と共にあってこそ健全な学習となる。それが思想学習の本道であって、客観主義、公式主義的な思想崇拝は、思想の生気のない奴隷を生産するに過ぎない。学習の道は同時に創造の道であり、追従が同時に主体性の確立とならねばならない。