DAYS
随想
Home
表現の極限
ある極限的な場面では、存在は無の表現となり、無は存在の表現となるしかない。ここでいう「表現」とは、しかし、対象と表象の区別なき表現であり、およそ知の可能性の外部の存在を告知するものである。
Published:
2018年6月2日土曜日
Leave a Comment
Next Post »
« Previous Post
不正行為を報告
弁証法と唯物史観
マルクスのイデオロギー論によれば、およそ精神的活動は、政治であれ宗教であれ科学的理論であれ、経済的土台(下部構造)に深く影響される。であるならば、ヘーゲル弁証法の原理もまた、当時の歴史段階の経済的関係を一定の仕方で反映している筈であり、マルクス的にはそれが階級間の矛盾対立となるだ...
(タイトルなし)
共産党。共産主義とはまず一つの真理に関する言説である。その中心は、レーニンなどの見解には反するようだが、真理=人間(我々自身)の幸福の実現、にある。階級論も革命論も、唯物論的世界観も、運動論も全て、この真理の実現にこそ方向づけられている。我々の人生も、我々自身の真理の実現過程であ...
(タイトルなし)
弁証法、特にヘーゲル弁証法に関して私が最も強く影響されているのは、案外、武市健人かも知れない。ヘーゲル弁証法とマルクス弁証法は、形式的には共通していても異質なものと見なすべきだろうが、武市はヘーゲルのルター派的な広大なそして原理的な宗教性を重く扱っている。マルクスは、ヘーゲル弁証...
moi
渡部 唯人
@watanabetwit http://tadahito.hatenablog.com/
詳細プロフィールを表示