【思想】思想は意識された精神の内容である。無意識もまた精神の一領域をなす。精神は複合体である。
【精神の内容】精神は言語によって世界を映す時、世界精神である。精神は世界を映しうるから精神である。
【精神と自由】個人的精神の本質としての自由は相対的自由であり、この相対性は相対性である限りにおいて絶対性=自由の一契機をなすに過ぎない。
【内部の外】私たちが内部へ入って行く時、それは言語という外部性の内部に入っていく事を意味する。
【民族性】民族性とは共同性が意識の同一性の一形態であり、かつ同一性の対立物である意味で、同一性の稀釈された意識である。自己同一性は内的な差異の仮象であり、この内的差異は精神の相対的自由の原因である。内的差異は外化されて外的差異となり、自己と他者の差異が意識として生じる。他者性は本質において共同性の反対物であることによって、共同性の起源である。外的差異、他者性は稀釈されて共同性となり、自己の同一性と他者の同一性を制限する。共同性がその本来的根拠と現実的な必要を離れて、自立的な共同性となる時、共同性は一定の主体性を発展させて、自己と他者への対立的な、法的な規定力を有するに至る。それぞれの民族性はメンバーの構成員資格の規定を持つ。この規定の相対性や恣意性は、民族神話の創造と共有により隠蔽され、絶対性として強制される。
【民族意識】民族意識の主要な定在は言語の固有性であるが、これは精神の定在が言語であることによる。だが、掟に規定されていれば何でもよい。
【民族の起源】民族の内的差異は外化されて異なる民族を発生させる。
【同一性と差異性の同一性と差異性】同一性の概念と差異性の概念じたいの同一性と差異性を問うことが可能なのは、それぞれの概念が、一なる本質性の根源的な否定により、内部に差異を含む概念であるからである。
【フレーゲの数の定義】フレーゲが同数性を数の基礎に見るとき、彼は量的同一性を指示しているのであって、種々の対象の同一性の中で、数学的同一性の概念から全ての数を説明しようとしたものと思われる。
【民族の掟の恣意性と言語の恣意性】恣意性は必然性の起源であり、その感性的段階であると言えるが、一般に言語記号の恣意性と民族の恣意性とが、まさにその民族の個性であり、異質性をなす。従って資本主義人民における民族性の解体は、同質性への還元操作による。これは公理系の問題として数学的に寓意されうる。
【声と現象、デリダ】デリダが言語記号における指標と表現という二つの機能を区別することは、言語の中心性に対して記号一般の本来的機能を擁護するものであり、文学をその自律性と創造性の観点から擁護するものでもある。

1 概念と概念の分化。概念の多様化、概念の質的変化。原概念と概念の体系。
2 二世界論。自己世界と他者世界の二性。複数のものの二項への収斂。
3 あらゆるものが神である世界。絶対的本質。個物の差異をなす相対的本質。
4 悪という仮象。罪、影。自己の相対性。自己の絶対性へ向かう祈り。

経済

やはり国民多数の要求は経済生活の改善であり、経済生活の左翼的改善が目指されるべきである。再分配、福祉拡充は必須だが、それだけでは経済政策として弱い。何か連合政府の一致点となる左翼的経済発展のスローガン的な政策が必要だ。忘れちゃならないのは、レーニンが革命を成功させたのは、社会主義計画経済のほうが資本主義よりも合理的かつ平等、しかも効率的に発展するという期待があったからなのだ。唯物論的には経済が主要問題であり、憲法問題などは中心課題としては弱い。「共産党に任せれば経済はうまくいく」という国民の信頼が得られないと伸びない。 ソ連経済は破綻のイメージがあるが、実は、ヨーロッパで最も遅れていたいわば後進国だったロシア経済が、ソ連時代には50年もかからずに世界トップを争うまでに成長したのだから、計画経済は優位性もあるのだ。ソ連経済の問題は、寧ろ人権を無視した暴力的な政策、収容所の労働力の利用などである。連合政府によって共産党が民主革命を成功させても、かなり長期にわたって資本主義は存続すると思われる。さしあたり共産党が目指しているのは、資本主義の内部変革。内部変革の中で、国民多数の利益になる経済発展を可能にする政策を進めねばならない。もちろん、自民党に任せておけば経済がうまくいく、ということはない。この20年の日本経済を見れば明らか。自民党が進めている経済は、ごく僅かな特権階級が利益を飛躍的に拡大し、圧倒的な多数が貧しくなる政策。それには成功しているのだ。言うまでもなく、経済の発展というものは、国民の多数が豊かになるのでなければ意味がない。極めて少数の資産家が極めて豊かになって、他は貧しくなるような経済成長を、発展とは言わない。だが、自民党が目指しているのはそういう経済成長だから、いつまでたっても多数者は豊かにならない。

自由主義と資本主義

資本主義は自由主義ではない。それは利潤追求という目的の奴隷として人々を育成し、自分たちは自由だと錯覚させる体制である。一方で、あるべき社会主義は、様々な支援と規制の理性的な運用によって、人々のなかの真の自由を育成する体制である。

表現の極限

ある極限的な場面では、存在は無の表現となり、無は存在の表現となるしかない。ここでいう「表現」とは、しかし、対象と表象の区別なき表現であり、およそ知の可能性の外部の存在を告知するものである。

永遠と絶対無

永遠と絶対無


我々は絶対的にないものを直接には表象できない。それは永遠という存在の本来的形態を直接には知ることができないのと同じである。そして媒介的に知りうるということは、その論理がいかに体系的な完成性を標榜しようとも、必ず不完全であり、誤ることと同じである。

存在と無と

  存在する、とは、まず第一に、無であることでなければならない。それは弁証法的な意味でもそうだが、まず第一に無であることとは、万象にとって存在の第一条件なのである。言い換えれば、無であることができるという可能性があって初めて、物象は存在できる。それが、一般に存在本質である。ただしこれは、単なるニヒリズムではない。そのような先行する無とは、単なる否定でも空虚でもなく、可能性そのものであるような否定であり、最も充満したものとしての空虚であって、この始原の無は、超越的な絶対者のロゴスであるから。

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