革命とは、命が革る、と書く。新しい生命を得たかのように、市民生活が生き生きと輝いてこそ、革命である。革命の成功も失敗も、その曲折も、街頭の市民の笑顔と行動とに表現される。新しい革命のイマージュが必要である。多数者による平和的かつ議会主義的な民主主義革命。悲壮なエリート革命家が銃器を持って推進する革命の対極にあるようなイマージュである。21世紀以降の革命運動。革命は真理を実現する。
マルクスのイデオロギー論によれば、およそ精神的活動は、政治であれ宗教であれ科学的理論であれ、経済的土台(下部構造)に深く影響される。であるならば、ヘーゲル弁証法の原理もまた、当時の歴史段階の経済的関係を一定の仕方で反映している筈であり、マルクス的にはそれが階級間の矛盾対立となるだろう。社会が矛盾を原理としていることを論理学に適用すると、弁証法論理になる、という訳だ。だが、マルクスはヘーゲル弁証法を転倒したが、弁証法を捨て去った訳ではない。矛盾対立において支配側ではなく、被抑圧側に立って弁証法を活用した、というべきだ。
弁証法、特にヘーゲル弁証法に関して私が最も強く影響されているのは、案外、武市健人かも知れない。ヘーゲル弁証法とマルクス弁証法は、形式的には共通していても異質なものと見なすべきだろうが、武市はヘーゲルのルター派的な広大なそして原理的な宗教性を重く扱っている。マルクスは、ヘーゲル弁証法の神秘的な外皮とそれを呼んで、弁証法の核心を主に精神現象学の理解から抽出したものとマルクス主義では言われるが、それは単純に形式的対立の問題ではない。唯物論と観念論の対立も、シンメトリー的な対立というよりも、過剰と欠如、歪曲を孕んだズレである。そう、マルクスが学位論文で取り上げたエピクロスが、クリナメンの概念を独創したように、ヘーゲル弁証法に対し偏奇しているのがマルクス弁証法である。(勿論、アルチュセールの偶然性の概念はマルクスーエピクロス由来の物だ。)