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表現の極限
ある極限的な場面では、存在は無の表現となり、無は存在の表現となるしかない。ここでいう「表現」とは、しかし、対象と表象の区別なき表現であり、およそ知の可能性の外部の存在を告知するものである。
Published:
2018年6月2日土曜日
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